最近暇を見つけては老荘思想についての本を読んで、なるほどね、と関心はしておるのですが、特に物欲が減るわけでもなく、短気もなおらず、口を開けば人の悪口に愚痴に金の話。
老荘の云わんとするところの、道、無、自然などからはほど遠く、自分の俗物加減のみが意識されております。
この老荘思想、云わんとすること矛盾を抱擁した比喩が多いので頭で考えると眠たくなってくる、睡眠導入にはもってこいの思想であり、ぬくぬく布団の中で本を読み、考えては追いつかないのでイメージでその云わんとすることを想像し、春秋時代時代に諸子百家、戦時中にどうして敵を打ち破る策ではなく、この緩い思想にたどり着いたのか?、大きくイメージすると荘子の出だしの何千里のも大きさの鵬、9万里旅しようとする鵬を笑うのは蝉にカラスのような小鳥たち。
う~ん、地球も歴史も小さいなぁ、暇だからってパチンコなんて行ってるなら、日曜一日眠ろう、と言う気持ちになり、こうして夜眠れなくなり、今ブログを書いてる次第であります。
ここ数年の僕はお金のことばかり考えて生きてきた気がします、今現在も頭の隅に金の事やあれこれ欲しいな、と云う計算の気持ちがございます。
老子の云うところの有用ばかりに目を向け、無用、ということを軽視しておりましたが、どうやら荘子は無用があるから有用があり、無用の前提があるから有用が発生する、と言うような眠たくなるような事を言っております。
さらにはこう言う事は文字では伝えられないと、例え話で説いておりますが老荘思想は文字で伝えられており、かと言ってそんな事で老荘を否定するのはナンセンスであり、知識で追わず、感覚に頼れ、感覚が追い着かないなら自然に任せちまえ、眠ろう、となる訳です。
一つの音を奏でるのは一つの音を失うと、何かを作るとその分何かを削らなければいけなくなるから自然の音を聞け、と、フッとここで思い浮かぶ無窮という感覚。
暇なときなにかしないとと焦り、賭け事ばかりしておりました、そうしてそれに勝つために様々な本を読みました。
老荘では知識を得るのは、バカになるくらいの事を言っております。確かに、、僕はバカだったと思います、賭け事ばかりしておりました。(賭け事楽しいんですけどね)
知識を捨てて悠久や無窮の自然の流れに感覚を預け、パチンコや株をやったら勝てそうな気が、、、この何でも賭け事に利用しようとする癖、これを捨てないがぎり、無に到達することはないのでしょう。
ただこのかすりそうな、無の感覚、難しいことを考えて眠くなり、食べては寝て一日無駄にするのは悪い気はしないです。
老荘思想、北の海に大きな鯤という魚がいてそれが変身し大きな鵬になり大きな風に乗り9万里南へ飛ぶらしいのです、この出だしの一節を考えるだけで一生暇なく過ごせそうな大きな話です。