フロイトの考える精神構造の基本は、es(ドイツ語でエス) 自我 超自我からなる構造で、特に人間の意識できないesの部分、無意識の領域に気付いた事により、ここを基準にフロイトの精神分析の思想は始ります。
その心の意識できない部分のesから成長と共に自我(エゴ)が発生し更にはその自我を監視する超自我(スーパーエゴ)が精神構造を織りなし、共存しそれなのに共にストレスを与えあっており、その者の人格が形成され、性格が出来、そのパワーバランスが崩れる時に精神病が発生すると云う構造です。
自我(ego)
自我という概念は広範囲にわたり意識をもち、根本的には人間とは何か?と云う問題に答えるときの中心的な概念になり、ですから自我についてどんな考え方をするかは、その心理学の理論の基本となり、精神分析的には自我が主体で自己が客体とみなされます。
ですから自我とは、私が、これが私だ、と思っているもので、心の主体となります。が誰もが直接的にわかるものでありながら、客観的に他人に示すのは難しいものです。
自我は(僕や私は)一見してすべて意識しているような気はいたしますが、そのほとんどは無意識的です。
自我は2歳頃から徐々に現れ、現実原則に従いながらも、本質的には利己的で個体(自我)に危害が及ばないように守っています。
自我は脆く不安定なものです、どうしてか?一説によると人間は本能をなくした代わりに自我をもつようになったらしく、自我は自然に根ざしていない、その存在の生物的根拠をもたないから人間は悩む、とありました。。。
ですから自我はある程度の統合性を必要とし、生まれてからそれまでの自己の歴史を背負いひとりの人格を持つ、そのために自我は自信を防衛する機能をもち。
自我その存在を続行する傾向と、自らを変革する傾向と、相合をゆるす傾向をもち、常に未完であり開かれた存在でもありますが、自殺と云う自らの存在の否定も行えます。
自我は三君に使える従僕、三君とは、外界、超自我、es。
超自我(superego)
人間の道徳的態度、良心、罪悪感などを代表するもの、自我から別れてきたもので社会の論理的基準が内面した結果のものですから、必ずしも育った環境によっては社会に沿うものでない場合もあります。
基本的には両親と教師との同一視から発展し、その働きは2つに分かれます。
1、罪悪感や良心の呵責などによって示される、自己批判的、自己処罰的機能。(大抵の後悔の念はこれから生まれます)
2、自我理想といわれる、理想や価値観を設定して自我を守り、esによる本能的衝動とその衝動の表出を禁止し抑圧しようとする。(この機能により人間は常に葛藤に苛ませられることになります)。
3歳ころから現れ始め、自我とesとの戦いを見下ろして、自我を監視しています。欲に押されてないかと。
超自我は他人の事も考えます、ですから超自我の発展が弱いと犯罪に走りやすい傾向になります。ですが僕の考えですが超自我が強くても犯罪に走りやすいような気はいたします。その自己理想の強さ故に他を無視して。
超自我は自我の一部になります、理想を提供し向上心を起こさせ社会に個体を適応させますが、その自己理想もしくじると人を自殺に駆りたてます。
なかなか諸刃の剣の部分でございます。
es(ドイツ語でエス)快感原則にもとずく一時過程的無意識
英語でIt,日本語ではそれは、と形容しがたい心のなかのエネルギーの渦、これが人間のすること起こすこと全てを支配しており、極論でなく、私は生きている、という言い方は条件付きでしか正しくなく、正しくは、私はesにより生かされているのであります。
esはいわば欲動の貯蔵庫であり、その欲動はひたすら快感原則に従って満足を得ようとし不快を嫌います。
心を動かすエネルギー的なものはすべてesの中から湧き出しており、自我はesからそのエネルギーを供給されております。
さらには幼児期からの願望も含まれていて、幼児期の願望とは、おっぱいを吸う唇の快感とかおしっこ出た時の快感など全てを快感として記憶しており、これが後のフェチズムや性感帯を作ります。(フロイトはこの幼児性欲説で大批判をくらいました。)
esは一時的過程で、矛盾や時間、論理もなく不快を排除し一度覚えた快感原則に従って行動を起こさせようといたします。生後2~3年は心の中にesしか存在しない。
esの願望はほぼ意識出来なく意識出来るのはその願望が夢にでてきたときだけですが、その夢すら変換されております。ただ確実に、それは、心の中に渦巻いている、これがesです。
このes 、自我、超自我のバランスが僕や私を保っている訳です。
特にesの存在を考えると人間の精神など実にギリギリですね、そもそも自我とは自分とは、これすらもギリギリのような気がいたします。
次はこの三者の関係をもう少しわかりやすく説明いたします。。。