学がないのは悲しいことで、翻訳され自国の文字で書いてあるにもかかわらず内容が難しかったり、難しい漢字を使われると、一応字は読めはするけど、いっこうに面白くない。。。
天下二道アレバ走馬ヲ郤ケテモッテ糞イ、天下二道ナケレバ戌馬郤二生ズ。
禍ハ足ルヲ知ラザルヨリ大ナルナク、咎ハ得ルヲ欲スルヨリ大ナルナハシ。
故二足ルヲ知ルノ足ルハ常二足ナリ。
普通二書イテクレレバ簡単ナノニ。。。
で、どうして学のない僕がこれを読めるかと言いますと、意味がわかるまで繰り返し読む、耐える、と言う事です。
読めない文字はIMEパッドでわざわざ読み、そうして意味を調べる、学があれば何の問題もないところ学なき故に苦労する。
でもこれ不思議と慣れてくるとすらすら読めるようになり、少し頭の良くなった気がしてきます。
そうして次はこの難解な比喩を読まなくてはならなく、またこれが厄介。
老子が道についての章の一文ですが、道があるときは馬は畑を耕し自然ですが世に道がなくなると馬は戦場で子供を産む羽目になる。
禍で足るを知らぬことより大きなことはなく咎は欲張るほど大きなものはないよ
故に足るを知るのは今あるもので満足しなさい、と言うようなことを言っています。
まぁ、足るを知る、欲張るな、禍の元だよ、と言う事なんですが、更に読み込むなら、老子の再三云う、道について理解していると、足るを知ることの意味もより深く理解できるようになると思います。
本を読むとは、単に字を読めば良いだけでなく、心を読むや、先を読む、などと言うように、自分なりの推測を交えて読み、そうしてそれが独りよがりの読みや独善的な読みじゃないかを知るために、更に別の本を読み、答え合わせを繰り返さなければ本当の意味で本を読んだ気になれないのは、僕が何かしら自分で答えを出さないと、気の済まない独りよがりの独善家のわがままな性格だからかもしれません(こう言う僕のような性格の人間を世間ではバカというのです)。
本を読むのは大切なことです、というかわからない事が多すぎて読まざるを得ません。
そうして本を読むコツが、耐える、という悲しい手法。
学がないのは悲しいことです、、、ほんとはね、遊びにでも出かけたいのですが。