フロイトは自我は騎手で、esは暴れ馬と書いておりましたが、騎手は自力で馬をコントロールいたしますが自我は防御機能でesをコントロールする。
騎手は馬から落ちたくなければ馬の行こうとする方向に進むしかなく、同様に自我もesの意思をまるでそれが自分の意思であるかのように実行に移すときがあります。
心を動かすエネルギーは全てエスの中から湧いてきますが、エスは無秩序で混沌としており社会の掟など無視してひたすら快感原則に従うわけですので、自我がエスをコントロールしないと人間は社会に適応できない。
しかしエスの力は強いので、いつでも自我がエスをコントロール出来るとは限らないので、フロイトは馬と騎手と例えた訳です。
僕の描いた汚い図ですが、、、
図のようにesと自我と超自我は全く別物でもないし、真っ向から対立するものでもなく、太古からなる川から自然と水が流れて来ますが、そうすると社会のある川は氾濫してしまうので、自我がダムとなり一度せき止め、上手く水量を調整し人間の作った水路へ水を流す。
超自我はそのダムの管理人的役割で自我のダムを監視したり修理したりしているのです。
けれども時には雨が多量に降りダムが決壊するように、精神構造もesのエネルギーを抑えきれない時は自我が崩壊し精神構造に影響をきたす訳なのです。
フロイト曰く、自我は外界の影響を受けesの中に発生したものですから、自我の大きさを変化させるのは自我自身であります。
自我は上手に水の量(esの欲求)を調整し、尚且つ管理人(超自我)の言うことを聞きながら、その水量に耐え、社会からの欲求(社会的適応)を行い生きて行かなければならないので大変です。
ですから、神経症やストレス、多重人格やコンプレックスなどの精神障害が起こるのです。
これが一応の心のエネルギーからの三者の関係図になります。
対立する訳ではなく、上手く太古からのエネルギーを利用し、人間を本能、又は本能的行動から独立させ、人間としているのです。