約260年続いた徳川幕府、この長い時代の終わりには様々な理由がありますが、この尊王攘夷という、思想、スローガン、は徳川を一気に幕末へと導いた気がいたします。
尊王攘夷、という聞いたことあるようなないような言葉ですが、司馬遼太郎の竜馬がゆくや燃えよ剣を延々と読んでいると嫌でも身に付く言葉であります。
尊王攘夷とは、水戸学から端を発し主権を有する天皇(当時は考明天皇)を尊重し夷敵を打ち払うという事で、すごく簡単に言えば黒船を打ち払うのに外様な俺たち更には下流武士な俺たちじゃ出世がままならない、からよくわからないけれど水戸と薩摩藩士に習い、とりあえず、天誅、叫んで幕府の偉そうなの切っとけば食い扶持、うまく行けば出世できそうな気がする、という実に当時の若者らしい短絡的な考えの人斬りを志士とそれっぽく呼びました。夷敵を打ち払う前に弱腰な幕府を潰しちまおう。
で、簡単に言うとこれら不逞の輩を取り締まる為に生まれたのが会津藩京都守護職、のちの新選組であり、けれども当時の流行の思想ですから新選組の中にも尊王攘夷の考えはあり、そもそもが新選組の前進、を結成しようと目論んだ清河八郎はゴリゴリの尊王攘夷思想の持主であり、幕府の金で幕府を倒す集団を作ろうと画策しそれに異を唱えたのが近藤勇と水戸藩士芹沢鴨であり、この時、水戸藩士の芹沢鴨が尊攘派の清河と組むのではなく素浪人の近藤と組んだのが面白いのですが、芹沢は天狗党を嫌っていたか相手にされなかったと、何かで読みましたので、こう考えると、思想や主義で結びつくよりは感情の結び付きなんかもあるようで、そうすると尊王攘夷なんて御大層なこと言っているだけで、実際はなんか、そう、騒ぎの渦中でなにか関わってるよ感、出したかっただけなのかの知れませんね。
攘夷の名のもとに、、、尊王論、攘夷論。佐幕派(一応新選組の立場)討幕派(長州に薩摩)、けれどのちにこれらは変化し立場は色々変り、新選組など最終的に逆賊になっている訳ですから、幕末の混沌さが伺えます。
坂本竜馬と中岡慎太郎は少し異質な考えで尊王ともさりとて攘夷にも明らかに反対しておりましたし、尊王攘夷平和論者的な立場でありました。
尊王攘夷、はたして幕末の志士たちの中でこの言葉を見つめちゃんと理解し行動した者が何人いたのでしょうか?
そもそも人を切る際に発した天誅(天に代わってお仕置きよ)と言う、野暮な人斬りもこの言葉を使うと一見大儀あり気な感じになりますが、果して何人が理解し使っていたのでしょうか?
このまえ何かのコラムで、幕末に政変だと騒いでいたのは上の100人くらいだ、みたいな事を読んで大変面白く感じましたが、小説やドラマを見ると、如何にも幕末、幕末がすべてだ、と云わんばかりですが、実際庶民は生活していて、尊王も攘夷も関係なく現在の我々と同じく、ただ日々の生活があり、時々近所で人斬り騒動があったくらいであったのかもありません。。。
とりあえず尊王攘夷と叫んでみて、京で刀と酒と女、実に楽しそうです。
歴史の動くところに主義思想あり、そうして大抵が仲間内の小競り合いに終始し大儀を忘れてしまいます。
まぁ人間の行いに大儀などなく、大儀なく生活以外の事をするのは気が引けるから大義名分を作って命を投げ出しやすくしているのかもしれません。
幕末、非常に面白い時期ではあったのでしょう。