精神分析学=フロイトと言っても過言ではないくらいフロイトの精神分析学における功績は大きく、と言いたいのですが、、、
フロイトの精神分析は特に精神的な目に見えない部分の学術でして、精神分析学、なんて呼び方をすれば、一見して科学的根拠に基づくような気になりますが、突き詰めれば哲学に近く、何を根拠に精神病とするのか?という事になり、その国や地域における文化や風習、更にはモラルにより内面的な精神の事でも外部要因でも大きく変化するものであり、これ、と定義するのは精神病とは非常にあやふやな病であります。
ですから一つの目安として日常生活や人間関係に著しく障害をきたす場合は精神的病となるのですが、やはりこれは戦争の絶えない地域や国では贅沢病の一種のような気がして、現にフロイトの患者は当時の富裕層のマダムが多く、フロイトを読めば読むほど精神病とは何か?という疑問が生じ、フロイトを精神分析学、として読むのではなく、やはり哲学的に解釈すると、人間の精神とは、という目に見えぬものを、なんとなく形としてとらえることができて、フロイトも精神的抑圧(精神の病の基)を意識化することでカタルシス(清浄化)できる、と言うようなことは言っております。
フロイトは、無意識(es)と言う意識できないから無意識なわけでそれを一応、論理付けし無意識を意識化に成功したということや、幼児性欲説(簡単に言うとSEXを目指さない性欲)を発表し種の起源並みの大変な反発を食らいました。
フロイトをかなり乱暴に解釈すると後天的な9割の精神疾患は幼児の頃の性の抑圧における無意識下の葛藤の表れであり、夢診断も連想法も全てを性的な(エロではない)ものに結びつかせようとしている節があり、精神分析もなにもしないで良いんじゃない、と思えるくらい性、性、性となります。
種の起源ではないですが、フロイト以前の人間の心の不安は信仰心により、神に頼ることで心を治めて、もちろん現在でも神により、いや、はっきり言えば人間は何かの依存により心を治めようとする部分は否定できないですが、フロイト以前は信仰心により心の平穏を保とうとしていましたが、この精神分析学における一応の深層心理の解明により、心の不安は何かしらの精神の葛藤により生じておるのですよ。。。としたのです。
種の起源では人間のもとは猿だ、と言い神が作ったものであるのを否定し、フロイトは神に祈らなくても心の平穏は保てますよ、と言っている訳でキリスト圏での反発は喰らうでしょう。
ただフロイトは人間は精神を手に入れたことにより、本能を否定し生きてゆく事が可能になり知性が生まれそれ故に、本能と知性の狭間で葛藤ができて精神が病む、としておりますから、人間が本能と決別したことにより知性となり、キリストが生まれたとなると、人は人の作ったものに依存し救われてまた病んでゆく、とそれこそここに生と死の二元論ができあがり、やがてそれも衰退し芸術が生まれる。
フロイトの精神分析はほぼエディプスコンプレックスで終始してしまいますが芸術を読み解けます。それはフロイトの奏でる精神分析と云うものが非常に芸術的であるからで、ドフトエフスキーをフロイトは読み解いております。
フロイトの弟子(のちフロイトと決別しましたが)ユング、そうして日本におけるユングの第一人者、河合隼雄 と対談した村上春樹、内面を表現する芸術は精神分析と非常に相性が良く、ぼくが村上春樹をよく読むのは、精神の構造が小説で形になり、フロイトを理解できたのは、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドとねじまき鳥クロニクルを読んだから、かろうじてフロイトの言う事が理解できたのです。
精神分析、難しく考えないでフロイトを読むと、人間の精神の形が成り立ちが目に見えるようになるので凄ーく時間のある時に読むのをお勧めします。
僕はフロイトを読み込むのに一年くらいかかりました。