上の図はわかりにくいですが刺激が心を通り対象に行くまでの動きであります。
人間誰しも一度は相手の気持ちや心の動きがわかったらなぁ~なんて考えたことがあるはずで、相手の心の動きがわかれば恋愛やビジネスなんでも勝てるなんて思っているでしょうが、人間が相手の心をわかるのは、透明人間になれたらな~、くらい非現実的なことであります。
精神分析学的に言えば、人間はそもそもが自分の心の動きもわからないから、ストレスが生じそれが発展し精神疾患がおきる訳で自分の気持ちが正常なのか病んでいるのかもわからないで生きているのに相手の気持ちがわかる訳がなく。
人間は自分の思考の中にある自分の気持ちが実は自分の思考の外にあるものという事すらわからないで、自分の心を自分のものだと思いながら生きている生物であり。
ドイツ語でes,英語でIt,日本語でそれは、と言われるものにフロイト的に言えば支配されてユング的に言えば共存して生きて居るのであります。
決して自分の中にあるものとは言え自分の思うようにならないのが、一応、心や気持ちと言われるものであります。
アインシュタインは、人は海の様なものである。あるときは穏やかで友好的、あるときはしけて悪意に満ちている。と言っておりますし。
トマス・ア・ケピンスと言う哲学者も、他人が自分の思い道りにならないからといって怒ることはない、自分自身でさえ思い道りにならないのだから、といっております。
冷静に、客観的に考え分析し自分の気持ちを思えば、人間は、まずは、自分の心の動きすら把握しきれていない生き物である、という事を、まずは、認めなければなりません。なによりさきに、まずは、自分の事すら人間はわかっていない。
愛、誰かを愛するとは、実に簡単な行為のような気がいたしますが、愛は惜しみなく与う、と思いますが、有島武郎の愛は惜しみなく奪う、と言うような解釈もできますし、愛する故にいらぬ感情を持つこともございますし、好きでも意地悪言ったり憎んでみたり、また好きになってみたりと、まあまあ人間の心の不規則なことよ。。。。
心の動きを知るに有効な手段として、宗教的な意味合いは捨て、禅、は実に有効な気がいたします。
精神科に通って精神分析的な手法もいくつかあるのですが、独りで、黙って、静かに、無料で暇さえあればいつでもできる、となると、禅、はとても有効です。
禅の境地は、究極のところ、無、に到ると、仏陀いわく、諸行無常や一切皆苦に四聖諦なんやらと小難しいことを言われると余計に無に近づけなくなるので、まずは簡単に眠る前に当たり前ですが目をつぶり今日の出来事を思い出す。
気がつくと眠っており朝になっている。
これが禅の究極の境地であります。何も考えないで眠りにつく、、、非常に無に近い心境であります。
なんてね、長くなったので次は、禅についてブログを書きます。