先日床屋で適当にとった漫画でバガボンドという、宮本武蔵を題材とした漫画で、吉岡清十郎の後の先をとる、と言って武蔵は涎を垂らすくらいの集中状態から、清十郎を真っ二つにぶった切っておりました.
後の先ね~
カウンターとはまたニュアンスの違う、なんか興味深い言葉だなーと思いました。
宮本武蔵の書いたとされる兵法書、五輪の書を僕は何んとなーく読みましたが、兵法に於いては常に先手必勝のようなことが書いてありましたが、史実と違うじゃないか、なんてどうでもよくそもそも武蔵も存在したか、五輪の書や孫子の兵法書もきっと武蔵も孫子も本人書いてないからね。
今回考えたいことは、戦いごと、ビジネスや賭け事、恋愛などの勝負事に於いて、常々先手必勝が推奨されておりましたが、この敢えて後手をとるというなんというか、戦術を超えたところの大物感。
いいよ、俺が奢るよ、みたいな。
考えてみますと、兎角自分は損の無きよう無きように、細々と人を嵌めることばかり考えて、そうしてあろうことか何でも勝負と割り切り勝たなければ意味がないからと、徹底して勝つことばかりを考え嵌めたりズルを考えてばっかりでそうして無理やりでも勝ち、勝てば官軍、と自分のズルさを正当化し細々と勝ちを拾いながらも、なんとなく罪悪感があったのは細々した先手必勝のせいでしょう。
先手はくれてやる、いや、先手はあげるそうして得もあげる、その皆に先を譲った後に落ちているもので何とか工夫し上手くやる、と。
仮に先手を譲り僕が負けた場合はそれは僕の実力であり、そもそもがズル賢い僕のことだからどんな状況であろうとまず負けるなどなく、ほわーっとね、まずは相手の一撃を受ける。上澄み一番の大儲けも譲る。
そうして残った誰も気に留めないような部分で僕なりに料理しその状況を楽しみながら生きる。
せわしない人生を送っていました、大きく考えると、このまま反撃などしないで切られたのならただ黙ってぶった切られてもいい気がしてきますね。
これは戦術を超えた戦いの放棄に等しく、人生遊びの境地で何かをしても死ぬ奴は死ぬし死なない奴は何をどうしょうと生き、なにをどうしようと死ぬときは死ぬのですからただただ黙って現実に人生を漂わす。
人生全体に於いて後手をとるという生き方。人の先にたたぬ生、おおよそせっかちな僕には似つかわしくない考え方でございますが、先手だろうと後手であろうと、なんとなーくどうにでもなるような気がするのであれば欲しい人に全部あげちまえば、先手の有利も勝ちも儲けも、傍から見たらバカに見えるでしょうが、それがいいのです。
元々バカなんだから、切るなら切れや。と少し深淵な境地に入りました。