僕は全くの下戸でありまして、人には浴びるようにお酒を呑んでいるように思われがちですが一切の下戸で一滴もお酒が吞めません。
それでも何故か僕はちょいちょいキャバクラに居ます。お酒呑めないのにどう言う訳かちょこちょこキャバクラにいます。
そうしてコロナにより遊び方などにも変化がありましたのにかかわらず僕はどうしてかキャバクラに居ます。
ただ最近は嗜み程度になっており本気にはなっていないにも関わらず、そうして全くお酒を吞まないでも数時間で何万円も飛ぶわけですから無駄金と言えば本当に無駄遣いであり、僕はどうしてキャバクラにちょいちょい自分が居るのかわかりません。
ですので僕はぼったくりというものが全く怖くありません、だっていつもウーロン茶一杯に常に何万いや十万と払っているのでボラれてると言えば毎回ボラれてるようなもので、うーん、この壊れた金銭感覚が夜遊びの醍醐味と云えば醍醐味なのですが。
本当はダメなんでしょうが、見栄っ張りな無駄金使いって後悔込みで面白いのよね。わかります?この感覚。。。
後はね、ほら、綺麗な女性にチヤホヤされて悪い気どころかそれはまぁそれは楽しきかな。
高杉晋作は詠いました。
三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい、と僕も謡いたい、、、、ひどいね。
自論になりますがこと遊びに於いて、カモられているだけでは二流、カモがネギ背負ってきた、と喜ばれて晴れて一流であり、そこから更に無駄金と知りつつ如何に綺麗に無駄に沢山お金を使うかで、遊び人としての評価が決まるのです。
傍から見たらバカでしょう、当事者から見てもバカですからね。
けれども司馬遼太郎先生いわく「鋭さを面にあらわして歩いているような男は才物であっても第二流だ、第一流の人物というのは少々馬鹿に見える」と言っていますので、異性にチヤホヤされてニヤニヤしているくらいの多少の馬鹿さがあっても構わないでしょう。司馬先生の書く歴史上の人物も芸者遊びに明け暮れていたでしょうから今も昔も僕は吞みませんが呑むのは楽しいと。
そうしてお遊びの時くらい大いに羽目を外して度が過ぎるくらいに遊び、深い後悔の念をまた遊びで忘れる。
こんなのを5年10年と続けていると潰れる奴は潰れて、不思議とそんな無茶苦茶な状況でも生き残る奴は生き残りすると放蕩の先の真実を垣間見た一人の馬鹿ができあがります。
そうしてこの常識の外で出来上がった馬鹿さは馬鹿は馬鹿でも大馬鹿であり多少のことじゃビクともしないので死ぬまでヘラヘラ生きていけるのでしょう。
僕はお酒は吞めませんが夜の遊びの雰囲気が好きで、お金にケチい僕にしたら夜の場は全くの無駄使い以外のなんでもないのをわかっちゃいるが、モテてる感がやめられないのよ。
大抵の土曜の夜は川越か志木か所沢でのほほーんと遊んで居るから誰でも構わないから暇があったら教えてください、たまには一緒に呑みに行きましょう。
と、こういう誰とでも仲良く遊ばせてくれる気持ちにさせてくれるのがキャバクラ遊びの良いところですね。