禅を辿って老荘思想に辿り着きましたが、老荘思想に触れるとどうしても、需、と云うものを否定してしまいがちになりますが、ポツリポツリと孔子様の教えを読んでいるとなかなか為になることを言っており、仁だの礼だの苦手でなんか面倒な気持ちになりますが、人間の社会生活においてやはり礼節に仁的な思いやりは必要だよね、と考えさせられる部分はございます。
面倒くさいですけれど。。。。
ここで儒教がなかなか良いこと言っているのに否定的な扱いを受けるのは、荘子の無為自然のなにものにも囚われない境地からすると、需は親への考から国への忠、仁義と政治にとって利用しやすく、人間の精神のもつモラルの部分、特に超自我(人間や自分ははこうあるべきだ)、というスーパーegoな所を刺激しやすく、孔子の言葉、道理に生きれてる自分、人間とは武人とはこうあるべきだ、が大変わかりやすくて、需を以て人を制しているのが荘子のような隠遁者からすると、その礼儀正しさや真面目に生きてる感に正義感が逆にうさん臭くて、規律があるから犯罪が起きるんですよ、、、と言いたくなるのもわかります。
超自我の暴走が行き過ぎた正義感を作るのです。
仁、義、礼、智、信、と封建的な社会や狭い中での生活をまとめるにはかなり有効な思想であり反乱の芽を育たせにくくする除草剤的な思想であります。
模範的であれ、と言う枠を作られる事へのイラつき。。。
と、論語に触れてなかなか為になること言ってるじゃん、なんて感じた割にはボロクソに需を否定するのは、なんとなく需=教育みたいな感じが嫌いなのでしょう。
儒教の教えは封建制度下の統治にはもってこいの思想であり、明治維新前までの日本の侍の教育が需であり、僕らの大好きな一万円札の福沢諭吉がフリーを自由と訳すまで、需の基には自由と個性と平等という言葉がなく、非常に堅苦しい社会でありました。
学問のすすめ、の中で偉くなりたいなら勉強しろと、生まれなど関係なく勉強し努力したら身分などなく個の努力で偉くなれる世の中になったんだぞ、と言っているのであり、正に革命的でデモクラシーで感動であります。
ただ氏曰く、秩序があって初めて自由なるものができるというようなことも言っており、特に孔子の生きた春秋戦国時代のような無秩序な世の中では、模範的なそれこそ模範的な教えがなければ、人は獣のごとくなり、仁、義、礼、智、信、が無ければ人間は人間として成立しなかったかもしれません。
ま、老荘はそれも孔子に余計なことを教えなくても人間は道(タオ)に勝手に流れるというようなことを言っております。
老荘では他を思いやるようなことはあまり説いておりませんが孔子の教えには他を愛しむことを説いており、この辺の差は個への教えと社会への教えの差でしょうが、孔子も老子もどちらとも読めばどちらともなかなか良いこといっております。