一休とは僕らのよく知る、あの一休さんであり虎の屏風を燃やしたり橋を渡らず燃やしてみたり、あのとんちで有名な一休さんのオリジナルは一休宗純といい狂雲というペンネームも持ち狂雲子と言う難しくて原文のままで読めないですが己の酒池肉林な懺悔録とのいうべきのもをあえて書いたりしております。
一休は禅宗派の禅僧であり一休は悟りを啓いた印可書もやはり燃やしており、相当なとんちの利いた相当型破りな僧でありました。
ここで凄いのが禅宗には風狂といい、簡単に申せば、無法天に通ずるを寛容しており戒律はあるのですが、断食は出来ても煙草と女は絶てねぇよ。みたいな感覚が風狂であり戒律を守り通すのも正ですが、逆正も又心理なり、と、この寛容さが禅の深さであり気軽さで、この辺の感覚は中国の老荘思想の無為自然的な感覚であり、孔子の儒教における礼、考、仁など礼節は作為的であり、老子いわく自然(道・タオ)に生きれば礼節や道徳など勝手に身に付く、と言うようなことを説いております。
かなり体系化され戒律やらなんやら小難しくなりつつあった仏教や儒教の堅苦しさに対して、自然でいいじゃない、と相田みつを的な気楽さが禅であり相田みつをの作品には禅の心が凝縮されております。
一休宗純の人物画を見ると僧なのに刀の絵が一緒に書かれております。
これは中味は木刀であり偽物の刀で、その辺の偉そうな僧と同じようなものだと民に説いており僧侶であるからこうであるがなく盲目の弟子の女性の恋人がおりなんだったら男色のことも告白しており、このとんちぶりには神も仏もさぞびっくりしたのではないでしょうか。
女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む、、、一休。。。
やはりね、断食なんかはできても女には勝てないと禅の大家がいっておるのですから性の深淵を知るにも禅は有効なのではないでしょうか。