老荘思想を読んでぶち当たる壁が、無、という概念であり、この無と云うものが、簡単に考えれば何でもない事なんですが、少し、無、に対して考えをめぐらすと思考は混乱しおおよそ無からかけ離れてしまいます。
普段何気なく使っている0という数字、この0を言葉で説明しろとなると、0は0でありそれ以外でないのですが、そもそも0とは何もない状態で0である、という事自体に矛盾が生じ、この0を説明するのは、仏教における空、を説明するような事でありまして、吐き気の催す問答であります。
老荘思想では、有と無は対義語でなく共存しており、有が引き立つのは無があるからであり、無用故に有用になりえて有の意義は無の作用によって生まれる、というようなことを言っているのですが、全くこれ意味がわからず、ここで考え方を少し変えて有を1とすると1はどうして1かと言えば0があるからこそ1になりえるので、げんにサンスクリット語での0はシューニャと言いこれは空を意味するとウィキに書いてあります。
天下の万物は有から生まれ、有は無から生まれる。老子四十章
万物の始まりは1でなく0であり、また1があるから0があり0があるから1がある、というのが老荘的計算式であります。
ここで0について興味がでたので少し調べてみたら、0は0でも読み方で表現が変るらしく、読み方で(ゼロ)と読んだ場合は全くなし、という場面に使われることが多く。
零(レイ)と読まれる場合は零度や零細などと微かに、を含む場合に使われており、天気予報は洪水確率(レイ)パーセントなるらしく、テストはゼロテンと読まれるとなっておりました。
老荘でも無を(ㇺ)全くなし。無を(ウツロ)と読む場合があり、ムはもう全くのㇺであり、ウツロは混沌を含んだりしている無をウツロと表現しているニュアンスがあります。
ですから雑編・外物で荘子が恵子という人にソレ地ハ広クカツ大ナラザルニアラザルモ人ノ用ウルトコロハ足ヲ容ルルノミ、と面倒なので省きましたが要は人にとって自分の立っている土は有用だけれどそれ以外の土を黄泉まで掘り下げたらまだその土は有用だろうか?と無用と思われていることが実は有用であることがわかりましたか?と荘子は恵子に言っておりますがあんまりわかりませんね。。。。
本当に簡単に言えば、相田みつをさん的に言えば、無駄でいいじゃないか、、、無意味があるから意味があるんだよ、、、みたいな感じかな。
もっといえば、無、1だろうが0だろうが2だろうがそんなもの、どうでもいいじゃないか。。。金にならないのだから。。。
となってしまいます。
最後に0を調べていたらこんな言葉がありました。
0という「無」は、数字という形あるもので表現されるようになったのです。と