そもそもこの無苦庵は孝を勤むべき親もなければ憐むべき子も無し。こころは墨に染ねども、髪結がむづかしさに、つむりを剃り、手のつかひ不奉公もせず、足の駕籠かき小揚やとはず。七年の病なければ三年の蓬も用いず。雲無心にして岫を出るもまたをかし。詩歌に心なければ月花も苦にならず。寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る。九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八萬地獄に落つべき罪もなし。生きるまで生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ。
これは前田利太(慶次)の晩年の無苦庵記の一説ですが、前田慶次は少年ジャンプに花の慶次で掲載されてパチンコでもだいぶ世話になったあの傾奇者の慶次郎ですが、傾奇抜いた末にこの境地に至っているのが面白く、また僧になりきらないでいてこの境地、というのが、禅やわびさびを読み解くよいヒントとなる歌であり、このどちらにも偏らない感、仏教とも禅ともの中間感が、本人は漫画でしか知らないですが前田慶次らしいな、ととても好感が持てます。
親も子も(縁)もなければ、仏心もなく、ちょんまげもなく、病気もないから人も雇っていない、芸術心もないから自然もただ眺めるだけ。
眠たければ昼間も夜も関係なく習慣も何もない。
天国に行こうという欲もなければ地獄におちる罪もないから恐怖もない。
ただ生まれた以上は生きるだけ生きたら自然に死ぬでしょう。。。
無心とはこのような境地であり、なにもないですがそれがとても羨ましく如何に今、自分が持ちすぎているかがわかります。
数年前、狂ったようにパチンコMAXタイプの花の慶次にハマり、赤保留、いや、金保留のキセル予告が外れた時のイラつきに、諦めの境地、当たらないならわざわざ出すなと、欲心にまみれた自分がこの歌に触れとても恥ずかしく。
あの頃のパチンコは10万円負けるのや勝つのが当たり前で、だいたい負けておりましたが一日で10万円以上負けてもどうせ明日また来て取り返すからいいよと、どうしてああも歌舞いて居れたのか不思議でなりません。。。
そうして夜はキャバクラと楽しかったな~と思い出は楽しいですがもう二度と戻りたいとは思いませんから、僕もだいぶ禅の境地に近づいたのかもしれません。